高校の文化祭と自由が丘の飲み屋の思い出
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文化祭ではクラスの文化祭委員をしていて、文化祭の企画運営や出し物や看板の制作やその他の様々な準備をする一方で、クラス単位の出し物では1年の時は展示、2・3年は映画を作りました。他にも選挙管理員会や3年の時はアルバム編集委員を兼務していたので、相当に多忙な状態であったように思います。
そんな、ただでさえ超多忙な文化祭活動の中で、さらに他のクラスの出し物の企画にも参加した記憶がある。(お節介なやつでした。)
友人のクラスは、サンドイッチを出す喫茶店をやろうとしていて、内装をどうしよう等と悩んだあげくに決まったのは、大滝詠一の NIAGARA SONG BOOK の絵のようなイメージでやろうということになったと記憶している。
そして時は流れて、僕が開業前の大学病院時代
大学卒業後の大学病院勤務時代。僕はお酒を飲むときは一人で飲みに行くことが多かったのです。
いつも行く店はカウンターがメインのしゃれた店で、割烹的な料理がうまい店でした。
一人でふらりと来る常連客が主な店で、様々な業種の10歳以上は年上の人たちと互いに手酌でお酒を飲みながら話したりしていました。
そんな大人な人たちは、当時バブル崩壊後の不景気の中でも悠々と自分らしく仕事をされている様な人が多かったと思います。
そんな大人な人たちの中に S さん がいました。
S さん は、全く力みを感じさせない素朴な飾らない人で、体格は大柄ながらフワッとした感じの自然体な人でした。
仕事の話はあまりしない人でしたが、グラフィックデザイナーであることや、山本耀司 さんと仕事をしていること、またご自身が ヨウジ ヤマモト のパリコレのショーにもモデルとして出ている様な人でした。
仕事の自慢話など全くしない人でしたし、とてもシャイな控えめな人でしたので、パリコレの話も照れながらやっと話すような方でした。
そして、話はさらに約8年?ほど経過し昨日のことになります。
ふと、あの飲み屋に来ていた面々はどうしているかと気になってネットで検索してみると、
実はなんと、S さんは 大滝詠一の NIAGARA がらみの何かしらのアートディレクターをしていたらしい事がわかったのです。これにはちょっと、ビックリしました。
高校時代、僕は NIAGARA SONG BOOK に出てくるような絵をそっくり真似て、友人のクラスの出し物の内装の原画やロゴを作っていたのだから。。。
大学病院を退職前。僕が独立開業をどうするかを悩んでいた時期、僕は S さんに相談をしたことがありました。
開業してうまくいくかが不安で仕方がないと打ちあけた僕に、 S さん は、ちょっとだけプッと吹き出して笑みをうかべて
「何言ってるの〜。絶対大丈夫だよ〜。ありちゃんだったら絶対平気。」 と言ってくれたのでした。
普段は人のことを否定したり嘲笑することは絶対にしない S さんですが、僕の悩みを真っ向から心配無用と否定してくれたのでした。
そんな S さんの表情や話し方に、『バカな心配してるなよ。ありちゃんは何をやっても平気だよ。』というメッセージが込められているように感じた僕は、大きな勇気を頂いたのです。
これも昨日、S さんのことを調べさせて頂いてわかったのですが、 S さんは かつてメンズファッション界で一世を風靡した VAN ジャケットの宣伝部のエース的な存在だったらしいのです。
VAN が倒産するまえから VAN にいたかは定かではないのですが、倒産後の 新生 VAN の広告を担当していたことは確かなようでした。
VAN と 故石津謙介氏に関するある資料
S さんは 倒産した VAN のリベンジに携わった様な人ですし、大衆の流行に左右されるファッション業界の激しい栄枯盛衰を沢山経験し知っているのだと思います。
そんな業界の諸行無常を沢山見てきた S さんにとっては、医療業界での僕の悩みなど大したことがないことだったのでしょう。
僕の人生の中で、非常に重要な様々な学びを与えてくれたあの自由が丘の店は、今はもう無い。
あの頃のメンバーの年齢に近づいてきた僕は、またあの頃のメンバーと酒を飲み交わしたいのだ。
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文化祭の出し物の話はなにぶん古い話なので事実と多少のズレがあるかもしれませんが、その点何卒ご容赦下さい。間違いがあったら訂正します。今、宮田が来たけどわからなかったです。(笑)全然、別のアーティストかもしれないです^^
あと、大滝詠一の NIAGARA の関係と S さんとの関わりは未だ謎な面がありますが、親友と言われる人のブログの記事を参考にさせて頂いております。
あと、僕自身は VAN の世代より後の人間です。